長良北町 (ながらきたまち) 長良線の旅も最終回となりました。 (当初このページは徹明町からスタートして毎回旅を進める企画としてスタートしました。) 1988年5月31日 別れを惜しむ市民と鉄道ファンで大混雑の中、午後11時に最後の電車が出発。 長良線は歴史の幕を閉じました。 2000年 9月 撮影 1997年 8月 4日 | ||
鵜飼屋 (うかいや) 異論はあるだろうが、私は長良線では鵜飼屋を出て南へ向かう時の車窓からの眺めがいちばんだと思う。 長良橋の上には視界を遮る物が無い。 昼間は長良川にせまる金華山、夜はライトアップされた岐阜城。 四季折々の表情をみせる山河はまさに市民の 誇りである。 1997年 7月27日 | ||
陸こう 長良橋付近の長良川には本堤防の外側にもう一つ堤防がある。 外側の堤防には長良橋から下りてくる道路の部分に「陸こう」がある。 「陸こう」は通常は建屋内に格納されていて、水害時にレール上を引き出す。 左写真の水門のレールには4箇所切れ目があり、それはまさに上下線路の4本のレールが交叉していた場所だ。 右の拡大写真ではコンクリートの色の違いがわかる。 1997年 7月18日 | ||
長良橋 (ながらばし) 電停は坂を上り切った長良橋のたもとにあった。 岐阜市民の憩の場である長良川の河原は、電停を降りるとすぐであった。 めだかや小魚と泳げて、しかも無料であった。 今回ここに長良線が走っていた事を示す確かな痕跡を発見したので次回更新をお待ち下さい。 1997年 7月13日 | ||
公園前 (こうえんまえ) 材木町のカーブを右に曲がると、正面に金華山 そして山頂の岐阜城が視界に飛び込んで来る。 特に夜は何とも言えない程美しい。 そして電車は岐阜公園への玄関口「公園前」に到着する。 (下右は電停付近の写真) 1997年 6月30日 | ||
材木町 (ざいもくちょう) 昔ながらの街並みが残る材木町界隈。 今回上左に美しい街並みの写真を載せた。 左の写真は、有名な材木町のカーブから南の電停跡を見たもの。 なぜ有名かは次回で。 1997年 6月26日 | ||
本町 (ほんまち) 本町から北には昔ながらの街並みが残る。 停留所のあった道は拡幅工事が進み、かつて路面電車が走っていた頃とは様変りしている 1997年 6月16日 | ||
伊奈波通 (いなばどおり) 伊奈波神社は、毎年初詣の人出が岐阜市で最も多い。 かつては伊奈波通行きの電車も多く走っていた。 伊奈波通には折り返し用のポイントがあり、電車はお客さんを降ろした後で折り返し、新岐阜方面へ向かっていた。 1997年 6月 6日 | ||
大学病院前 (だいがくびょういんまえ) 路面電車には「何々前」の停留所名がよく似合う。 やはり公共交通機関はこうでなくてはならない 誰もが訪れることが出来るように・・。 明治44年開業当時の路線は、ここ大学病院前の少し南の今小町が終点だった。 1997年 6月 1日 岐阜大学医学部付属病院は、2004年 6月に岐阜市柳戸へ移転しました | ||
市役所前 (しやくしょまえ) ここにも電車の面影は見えず、現在はバスのメーンストリートになっている。 後方の建物は岐阜市政の中心地 岐阜市役所。 今回 徹明町と伊奈波通を走る電車の写真を 思い出の550形 に載せました。 是非ご覧下さい。 1997年 5月26日 | ||
岐阜柳ヶ瀬 (ぎふやながせ) 歌でも有名な、岐阜を代表する繁華街柳ヶ瀬。 美濃町線も昭和25年まではここを起点としていた。 現在では近代的なアーケードが新岐阜まで完成し、電車が走っていた頃の面影を発見する事は出来なかった。 今でも運転士に「柳ヶ瀬へは」と尋ねる人は多い。 柳ヶ瀬のエリアはとにかく広い。 1997年 5月18日 | ||
徹明町 (てつめいちょう) 岐阜市内線開業からの路線は、現在の新岐阜駅前から徹明町を通って北へ延びる長良線(開業時は今小町まで)であった。 岐阜で「電車通り」といえば、通常この神田町通り長良橋通り)を言う。 かつては上下2線が平面クロスし、車体を揺らし架線からスパークしながら走る550形の姿が思い出される。 1997年 5月12日 |